コラム「えんがわ喫茶室」 2006/03/16
2006.03.16.Thu 12:42
どうもこんにちは。「隠れ家ギャラリーえん」の喫茶マスターです。昨日の夜「えん」の営業が終わって戸締まりをして外へ出てみると、春の匂いがしました。春の匂いとはなんなのか?わからないけれど、そんな感じがしました。夜なのでとても寒かったですけどね。でもそんな風なことを繰り返して、いつの間にか春になっていくんだろうと思います。暖かくなっていくだけでなんか嬉しくなってしまうのは僕だけでしょうか?
今回のお話は前回の続きとなります。前回は「カフェ・プランタン」が隆盛を極めており、コーヒー以外にも蒸留酒などお酒を出していたけど、当時はまだコーヒー豆の大量輸入ルートがなかった。というところまででした。では、その続きを少し・・・。 「カフェ・プランタン」がコーヒーを飲ませる場所としてというより、お酒を飲むところとしての要素が強かったというこの問題を解決することになったのは、明治44年11月に銀座の南鍋町に日本発の本格的なコーヒー・ショップ、「カフェー・パウリスタ」の誕生でした。「カフェー・パウリスタ」が販売するコーヒー豆はブラジル政府からの無償給与だったそうです。 ブラジルからの輸入コーヒーが無償給与という形になったのは、「カフェー・パウリスタ」の創業者、水野龍の経歴に関係します。皇国植民合資会社の社長だった水野がサンパウロの弁理公使の報告書を読み、ブラジルのコーヒー豆栽培が日本人に適した事業であると判断し、すぐに自らブラジルに渡り、調査。事業が有望だと確信した。明治41年から続々とブラジルへ移民を送り出し、ブラジルのコーヒー豆農園は日本人移民の手で開拓され、ブラジルの外資の稼ぎ手となっていった。ブラジル政府はその功績を報いるため東洋におけるブラジルコーヒーの宣伝販売権を水野に与え、コーヒーを普及させるように委嘱しました。 「カフェー・パウリスタ」は一号店の銀座店をはじめとして全国に19店舗を開店するとともに、大正2年には株式会社カフェー・パウリスタを設立した。「カフェー・パウリスタ」は水野にとって、移民とブラジル政府に対する報恩事業であったと同時に、その報恩事業が日本人にとってコーヒーを、大衆的な飲み物にしていきました。しかし、カフェという名前自体がコーヒーを飲ませる場所という認識になったのではなく。この時期はまだ日本におけるカフェの語義は、「カフェー・パウリスタ」よりも「カフェ・プランタン」の方向に傾いていました。 結局、戦後しばらくまではカフェとは洋酒酒場プラス@のことを意味していました。その要因はどこにあったのかというと、「カフェ・プランタン」で誰が給仕していたかという問題になります。「カフェ・プランタン」で給仕していた人々の中には男のボーイもいましたが、客寄せとして美人の“女ボーイ”も交じっていました。フランスのカフェにはないこの形態が、後に日本のカフェの性格を規定することになりました。「カフェ・プランタン」に刺激されて明治44年8月、銀座に3階建ての「カフェ・ライオン」が開店しました。その頃の他のカフェはいずれも文学カフェの傾向を帯びていて、プランタンなどいずれも普通の人にはちょっと入りにくいような傾向でしたが、「カフェ・ライオン」だけは美人三十名、いずれも揃いの衣装でサービスをしていたので、ちょっと入ってみる気になった人が多かった。 というところで申し訳ございません。紙面の都合上今回もここで終わらせて頂きます。次回とその次ぐらいまでこのシリーズが続いて行くのでもう少しおつきあいください。ではまた。 |
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